新聞

数日前から我が部屋に新聞が届けられている。

初日には中にちらしが入っていて「試読紙です。5日間配ります。勉強のためにも良いので新聞をとって読みましょう」とかそんな事が書いてあった。断る理由もないから、その日からまぁもらっておこうかなって事で、朝外出する時には新聞を部屋の中に取り入れている。

ひとり暮らしをはじめて、6目。図書館等で新聞を読むことは時々あったけど、一度も新聞を取らなかった私。こんな感じで新聞が毎朝届けられるのは、実家にいた時以来。あの頃を懐かしく思って毎日読むかなぁとか最初は思ったけど、物珍しさが手伝って読んだのは初日だけ。あとは一面に目を通すくらい。

TVも見ないから、TV欄もまったく要らないし。大きなニュースは情報源があれこれとあるので、入手に困らない。地方の小さな事件も気になれば調べる事ができる。情報を端的にまとめて紙に印刷して発行する。紙に印刷したことで、長く保存をすることができ、触れたい時にその情報に触れる事ができる。TVと新聞どっちを見るかって全く違うメディアを二者択一で考えたら新聞を取るのだろうけど、一人暮らしをしている間はこれからも新聞を取らないような気がする。

新聞を読むことが勉強にもなるって書いてはあるけど、世に勉強する気持ちで新聞を読んでいる人はどれくらいいるのだろうか。勉強なんて気持ちがあれば、何をしてもどこにいてもできると私は思っているから。勉強をネタに新聞購読を求めるのは、何かが違う気がする。

どうしても気になった情報があれば新聞を買うときもあるが、情報を得るために新聞を活用することも見直すべきなのかもしれないと思う時もある。日刊って形態は昔はとても早かったのだろうが、今じゃTVやラジオやホームページの情報は即時に流れてくる。TV欄やラジオ欄って物をつけて二人三伽になっているけど、結局それじゃ伝えたい事はなんなのか。

地球上のどこにいても。新聞社がホームページを使って随時更新している所もある。別にインターネットなんだから、新聞社を頼らなくていいじゃないかと思うけど、この辺りにも自分の中に情報に触れるなら新聞を活用するって物が居着いてしまっているのだろうか。書いてある事が同じなら何処を読んでも同じだし、記事のまとまりも似たような物。世界情勢に触れる本質は何も変化ないのに、包装の違いで価値無価値の境界線が引かれる。どんな情報に触れるときも自分からの情報を持つことが必要なのだ。メディアから伝わる情報の奥にある物を見つめて。

客観的な情報よりも、私はその人の意見が聞きたい。