実感

知ってはいるけど、なかなか実感としてわきにくいもの。この段階の知るは、本当に知っていると言っても良いものなのだろうか、ただ知っているつもりになっているだけなのだろうか? マスメディアでは毎日毎日色々なニュースが流されているらしい。お金の単位も億や兆の単位で話が進むことがざらにあるらしい。俺が実感出来る範囲を越えた話。余りにも巨額な資金、どこに使われたのか、一体なににつかえるのかが判らなくなりそうな尺度。だけど、それよりも多きな単位で話が進むことも沢山ある。その辺をお金と言う尺度を通じて、色々と並べ引き算した本が発売されたって話を今日聞いた。さっそく、本屋で立ち読み。一つ一つ事例をもって説明してもらうと、国家レヴェルでいかに無駄な金を使っているのかが良く判る。まぁ、個人の視点からみて無駄って思うだけで、ほんと一握りの人には必要な金だったのかもしれないけど。一握りを生かすために、多くを犠牲にする選択。正しいとか間違っているとかじゃなくて、こういう尺度でも金が動くって事を知れた事が大きい。マスメディアを通してみていたら、余りにも巨額な事に驚愕していただろう、こうして本として情報の得かたを変えてみると、また違ったものに感じられる。少しでも、身近に引き寄せて考えられる。身近に引き寄せないように、どこか遠くで起きた事のように告げる事も一つの情報操作。言っている事は同じことでも、遠くに感じられるそれは、記憶すら払わない事が多い。だから、俺はTVも観ないし、新聞も読まないのかもしれない。読む気になれば、本気で全て読んで、色々な事を想像して、事件の実態に迫る位にまで考えて読めばそれは面白いんだろう。だが、そんな簡単な話ではない、もっともっと、自分で集めた情報を信用したほうが、得られる情報を信じる事が出来る。マスメディアの情報もそう、もう一段階ファクタを通すと、色々な面が見えて来る。最近の新聞は情報よりも、気分転換のために図書館で娯楽として読む。小説の延長線知ることの楽しさと難しさ。