伝達能力

伝達能力の足りなさ、伝達する意志の薄さ。もしどちらがあるにしても、伝える事が出来なければそれは考えていない事と同義だし、伝わらなければ、価値は生まれない。価値なんてものを求める事すら愚かしい事なのかもしれないけども、気持ち良く答えられなかった事は事実。うまく答える必要なんて無い、ただ、問われた事と今まで述べてきた議論に基づいて構成された論理に置いての質問が全然把握できていないようにとらえられてしまったのは事実。こういう形でプレゼンてーションをするのは三回目だけれども、失うもとと得るものはあまりにも大きい。前と後では違う視点からものを見ている自分に気がつくから。自分が伝えたい言葉を自分よりもより判りやすい言葉で伝えられる人がいる。テクニカルタームを連発していれば、パッと見カッコイイし煙に巻く事は容易だけれども、それで終らしていては行けない事がある。例えば自分の目の前に立ち塞がる人だったり、例えば本質で相対していたい人だったり。実際判っている事の方が少ないのだろう。でも、挙げられた事例から論理的に導く事は訓練と習慣とそれに類するもののみが可能にする。伝えられないと考えていないような気持ちにまでなってしまう。もしかしたら考えていないのかもしれない。考えているつもりになったり、考えているふりをしていたり、形にする事が考える事でもないし、言葉に出来るものでもない。瞬間的にこれはこういう事なんだ! って判る時はある。そんな時考えたと言うのだろうか? イメージのずれに気がついたり、自分の中に卑しい程固定かされた観念めいたものに当てられる時がある。戸惑いは最高潮に達する。確かに予想範囲外の質問が浴びせられる事の方が多い、全く関係が無い分けの判らない質問の事だってある。でもそこに本質は無い。質問内容よりも質問された事が明確にとらえられなかった事が恥ずかしい。答えられるられないはまぁしょうがない事だと思う、その辺を踏まえられてなかったのだから。論点にずれが生じている事には気がつく。ただそのずれがどこから生じているのかの構成が出来なかった事が今回のいや、今までずっと持っている落度。情けなさは満開。毎回終る毎に自分のものにしようと思いつつ。少しずつ自分のものになってはいるのだけど、ハードルの高さとスタート地点がマイナス位置からはじまっていたようなので、その辺りのマイナス貯金が大きい。自分が少しずつ変わっている事は自分の文章を読んでいて判る事がある。とくにこうして日々記しているのよりも、時々しるしている方に、自分がどこに関心を持つ割合が増えているかの様な所に、読み返す事が恥ずかしくなるくらい幼さに当てられる。でもまだまだ先は遠いし目指す先もずっとずっと先。今でさえ全然及第点に達しているとは思っていない。いつも成長したいと思う人を子どもと言い、既に成長を止めた人を大人と言うならば俺は子どもでいたい。もっともっと自分自身が納得出来る自分を目指し続けていたい。