時間の作り方

今の生活で本を読んでいる時間なんて無い。そんな時間が作られるのならば、論文を読む時間だとか、算法を考える時間だとか、草稿を書く時間に当てれば何倍も有効な時間の使い方なんだろうけど。もっと生産的に、このホームページのコンテンツの更新に当てても良いだろうし、来年の為の年賀状を書く時間に当てる事だってありだろう。全てやらなければいけない事なんだろうし、やりたい事なんだから。そんな時間の中でも読書に時間を割いている。好きだからって理由が一番だろうけど。心理学的に逃避行動とか昇華とか言われるのかもしれないけど、そんな専門書を読んで自分をなっとくさせていた時代ももう昔の話。好きだけどね、こういう事考えているのは。健全とか不健全とかじゃなくて、純粋に興味だけでしらべたいし、これからもちょくちょくその関係の資料は趣味で読んでいくんだろう。読むって行動は書くよりももっともっと昔から俺がしていた事。記憶があるもっとも古いものでも古代史でも書けるんじゃないかって位昔。受験時代はこれを絶って居た分、色々なものが吹き出して来た。今は絶っていないのだけど、これが吹き出している。今の方が辛いのか、それとも、読むって行動が俺の中に何も生み出してはくれないのか。読了時の悲しさ。これが物語だと気が着かされる。いつまでもいつまでも漂っていたいと思ってしまう。こう考えはじめるのが、今精神的な時間が不足している証拠。実際読む事によってそれを考える事によって、考えが産まれているのだから、自分が考えているもやもやとした形の無いものを、こういう文章って形をとって伝えてくれる手段。結局自分と向き合っているのだろうか。果てしなく続く自慰行為なのかもしれない。夜が明ければまた始まる、思考の渦中に飛び込んで望み通り動かない計算機と仲悪くつき合っていく日々が。目的なんか半分位見失いかけている、終った時の事ばかり考える。かなり情けない。気分転換と称する事も可能。ストレスはその対象に向かわない限り解消されない。仕事のストレスは仕事で、研究のストレスは研究で、趣味のストレスは趣味で。色々な事が融合されて、新しい形をとりはじめる。