暖まった

よぉぉく温まった、真っ黒なすき焼き鍋の中央に、ピンポン玉大の牛の脂身を置く。割り箸を使って、その脂身を鍋一杯に動かし、転がし、塗りたくって行く。鍋の黒さが光を帯びてくる。頃合いを見計らって、人数分の牛肉を鍋の中に入れる。水なんて入れない。最初の暫くは、牛脂で肉を痛める感じ、少しずつ良い香りが部屋の中に満ちてくる。その頃、食べやすい大きさに切っておいた、焼き豆腐、タマネギ、を牛肉と一緒に入れる。あまり間を空けずに、全体に蓋をするような感じで、長めに切ったネギを入れていく。これだけでも、十二分に水分が出てくるのだけど、ここからが専門店の真骨頂。普通に売っている素では絶対に出せない味。割り下を入れる。全体の割合を見計らってこの濃さは決められているらしい。この割り下が入ると、鍋から醤油の良い香りが立ちはじめる。俺は少し赤い肉が好き。この状態であまり待たず、最初の一切を箸で掴む、生卵で受ける、ご飯でも受ける。そして、匂いをかいだ辺りから、空腹状態を訴え続けている、腹への入り口。口元へ運んでいく。噛まなくても良い。実際噛まないと大変だけど、こう言うのが一番肉の柔らかさを表しているのではないだろうか、それくらい柔らかく。それくらい美味しい牛肉。物心付く前にこの店には行った事が在るらしいけど、俺は覚えていない。覚えている中では初めてのすき焼き専門店。こんな美味しいものだとは知らなかった。これが特別な店だと言う意識を忘れてしまうと、牛肉とはこれほど甘美なものなのかと錯覚してしまうくらい、そう言う世界。すき焼きの最後はやっぱりうどん。ご飯も捨てがたいけど、この店ではうどん。出汁をめいっぱい吸い込んだ麺は、最初の1.2倍位に脹らんで、もう入らない位食べていても、するすると入ってくる。美味しいものを食べ過ぎて苦しい。最高の贅沢かもしれない。