差がない

「私的情景」と非公開日記の差が無くなってきたなぁということから、別なことを書くことにする。昨日はMacすら起動することなく、早く寝る。そんな日もある。昨日の記録が無いのはそのため、理由になってない? 今は困らないけど、一ヶ月後とか一年後とかの自分が思い返すのに困るかな。まぁそれもまた日々記録をとることの面白さ。ふらっと、高校の頃にならった、公民の授業を思い出した。日本にある刑罰の種類を。歴史的な変遷を色々と辿りながら結局今はこの五つに落ち着いているらしい。あの頃がそれだったし、刑法が大きく変わったって話も聞かないからこのころのままなんだろう。上二つ食らいだしね、ニュースになるような裁判って。時代劇の世界なら、磔とか鞭打ちとか島流しとかいかにも時代を感じさせる刑があったなぁと思いを馳せる。さて、このような罰をくらえば、自分のした罪は消えてしまうのか? そもそも人が人を裁くことが出来るのか? これは人が人を許せるのかって事にまで発展する思考。生物学的に社会学的に哲学的に法学的に倫理学的に神学的に……どんな立場をとるかによってその時のスタンスによって違うのは当たり前。その境界線は自分で引かなければいけない。ただ、罪の重さを罰の重さで置き換えることは出来ないと思う。その人のためでなく、罪を犯していない人のために罰が決められている側面も否めない。どんどんと儀式めいてしまう可能性もある。法律の力を用いて延々と連なる連鎖の輪を断ち切る。そこから外れた人がどんな顔をするのか? 使いようによって幸福にも不幸にもする武器。引かねばならない境界線、そして引き直す勇気を忘れてはいけないのも境界線。誰かに言われたから直すのではない、そうして言われて考えた過程を大切にする。裏にある心をくみ取る。自分の意見をもつこと。罪を憎んで人を憎まずと言った人は誰だったのだろう? 防犯と人権と安全。