何となく

なんとなく、ただなんとなくね。基準をどこに持って来るかの違い。あまりにも大きな違い。自分の過去の経験から得られるものなどを通して、基準が引かれる。競争相手をどこに求めるか、自分自身に勝てれば満足するって人だって居るかも知れない、周りを常に意識する事もあるのかもしれない。ただ、その周りの範囲がかなり違う。居る場所によっても、自らが置かれた場所によっても、その周りからのものは変わってくる。正しいとか、間違っているとか、そんなのじゃない。どの世界が自分に合っているのか、そういうものともまた違う。多様性の肯定って言い切ってしまえば、論がそこで止まってしまう。だからこそ、自らに許された時間を作って、様々な経験を積んで良く、色々な事を学んで行く。そこでしか学べない事は数限りなくある。大切なのは、これが社会なんだと悟りきってしまわないこと。これも社会の一部ではあるのだろうけど、これだけで判るものじゃない。社会勉強って言葉がよく使われるけど、そんな事を求めていたのでは、立て行かない事ばかり。基本は物事を前向きに楽しむこと。新しい世界に触れるたびに、今までの世界では絶対に感じ得なかった、新鮮な感覚に襲われる。知識としてため込むのは前段階に済ませておければ、より多くのものを一つの事例から感じとることも出来る。知識がいきる瞬間。使われない使えない知識なんて、どこまで行っても、雑学、話の種止まり。まぁそれはそれで十二分に楽しいんだろうけどね。興味を持てるものが数多くあればよい。反省しても後悔はしない。ふと、時々感情に任せて文章を書いてみたくなる。かなり破綻したものが出来上がるんだろうな、それはそれでなんとなく楽しみだったりする。言語化出来ないものを無理矢理言語化して、整えるまえの物、自分で見られるギリギリのライン。その前までは感じることだけ、でも、これも大切な心の動き。こうして心が動くことがとっても嬉しい。死なせてはいけない。