京極夏彦『百鬼夜行-陰』

百鬼夜行-陰 (講談社ノベルス)

百鬼夜行-陰 (講談社ノベルス)

「小袖の手」

魍魎の匣」のサイドストーリィ。これだけ読んでも確りとエンドマークが見え、そして「魍魎の匣」を知っているおかげで、三倍は楽しみをアップさせることができたストーリィになった。こういうサイドストーリィを集めた短編集を昨年夏に買っていたくせに今まで一ページも開くことができなかったのだから、情けない話。少しずつ生活にゆとりができてきたのか、単にゆとりを作りたいからよんだのか、うぅん静かに哲学しているようで単に薀蓄を固めて集めているだけのような気もしてしまう。こういう所まで妖怪シリーズ。一つの時間の流れをどこで切るのかで見えてくるものが違ってくる。何を求め何をみようとするのか? 主観と客観。主観の切り替え。静かに恐ろしい。

「文車妖妃」

この短編集を読むたびにもとのストーリィを読み返したくなる。一つのできごとでさえこうして視点を変えて読むと受ける印象がまるで違う。そして一人の人生もどの立場から眺めるかによって違うものがある。人はこうして様々な自らのストーリィを生きる。それが交差する時、人と人とは出会いそこにまた新しいストーリィが生まれる。自分に見えているものと他人が見ているものは違うのだろう。自分が恐れているものを他人が見た時どう思うのか……恐怖はそんな所からも湧き出してくる。そこから逃げ出すのも一手。立ち向かうのも一手。

「目目連」

視線の持つ力。世界は見えているのか、俺が世界を見ているのか、見えているものは本来の世界なのか、そもそも本来の世界とは何なのか。自分が何かを見ているような気持ちになる、相手と見ているものは同じではない。観察することが対象に影響を与えることは多い。量子力学的に物理的に精神的に。あの人を見ていたいと思う。もっと見て欲しいと思う。名前の無い視線、名前のある視線。それは眼で感じるものではない。今まで生きてきた勘とか気配とかそんなものにだけとらえることが出来る感覚。どこまでも残しておく部分。定量化出来ない生きている証。そこに恐怖し自失する。京極ミステリィの魅力がここにもある。

「鬼一口」

今まで当たり前だと思って思考を停止していたことに警告を鳴らしてくれる作家。それに気が付いた時が何かが動きはじめる時、そして思考停止していた自分が恐ろしくなる時。知らなかった自分に気が付かされるとでも表現するのが適当なのだろうか。知らないことを知らないまま素午津ことが恥ずかしく情けない、そして自分が知らなかったことにすら気が付かなかったことが、より自分を傷つける。自らを唯一内側から傷つけることが出来る刃がそこにはある。文字で描かれた世界が広がりを見せる。物語としては完結しているそれが自らを突き動かすことによって生き始める。恐怖は想像の中、ページを閉じた瞬間から現れる。

「煙々羅」

実家で読書をするのっていつ以来だろうか。静かな所でなるべく読みたいから実家ではあまり本は開かないのだけど、やっぱり本が好きな俺。十日近く本を読まないと読みたくなる。禁断症状初期段階? 実家では活字よりも漫画が中心。そして読むよりも買う本が増えてくる。こっちでしか手に入り難い本があるから。久々の活字で読むのは京極夏彦。ホラー小説って言葉で括るのが勿体無い位、巧いそして綺麗。この言葉がより恐怖を強く感じさせてくれる。妖怪は何処にでも住む。それを感じる。閉じた瞬間に目の前に広がる情景。

「倩兮女」

笑いは先天的なもの? 物心付かない幼子でも笑うのはこの作品を読んでいて気が付かされた事。作品の内容が小さな知識があることで深くなる。さて、このストーリィの本質はどこにあるのだろうか? 京極夏彦のストーリィを読む毎に不安定にさせられる。自らの心を震わされる。この震える感じが面白さの一つ。二度目三度目に読んだ時、初読とはまた違った気持ちにさせられる。文章の持つ力が心地よい。笑いの科学。「笑」の付く言葉の多さ。日本語がまた好きになる。

「火間虫入道」

この短編集の型みたいなものが見えてくる。ラストの一文は殆ど同じなのだけど、ここに繋がる文章が違うので、ラストシーンに広がる情景がまるで違う。ただ今まで全てはキャラクタの後姿が残っている。侘しさ淋しさそこに残る恐怖。人が、人が一番恐ろしい。人が恐ろしさを感じ、それを作り出す。何も無い所に恐怖を感じる。言葉のみが描き出せる世界

「襟立衣」

信じるということ。宗教を信じるということ。神を信じるということ。教団を信じるということ。教義を信じるということ。何を心の内側に生かすかでまるで違うのだろう。影響を受けないことも一つの強さのあり方。これだけじゃないのだろう。けど、生きていることが考えること、悩むことを許す。死をもう一度みつめてみる。

「毛倡妓」

怖いってことと嫌いってことは違う。形が見えているものと、形を受け入れることが出来ないもの。それ以上のものは起こり得ない。俺が怖いものは何なのか? しっかりと受け入れ受け止める。全く違うものを同じ言葉で括りつけるのはかなり乱暴な行為のように思う。後に残るのはまっさらに綺麗なもので、細かい事をわからなくする可能性もある。細かいことに大切なことが潜んでいる可能性だってある。一つ一つを厳しく大切に見る。丁寧な仕事。全てに繋がる感覚が京極ミステリィ

「川赤子」

他の9作品とは異彩を放つ一作。他の作品はカルテットでもなくサイドキャラクタをメインにストーリィを展開していたもの。だが、これはカルテットの一人を描いた話。そして姑獲鳥よりも前にあるストーリィ。一人称で読むことが鬱を誘うキャラクタ。彼のような性格って誰もが持っている部分なのだろうけど、これをメインに据えた作品を読みつづけると自分があてられたような気持ちになる。辛く、その淋しさを求めるときもある。