1人散歩

広島の街を一人散歩した日。市内電車や車では見えない物が歩くくらいのスピードだと見える気がします。街は盆、大きな商店はやっているのですけど、個人経営の店は盆なので休みますって張り紙を出していました。この道を歩くのはおよそ4ヶ月ぶりなのですが、それだけの期間見てないだけで、新しい店が出来ていたり、古い店が無くなっていることに気がついたり、店が変わるからそこに集まる人も変わっていっているんですよね。人が活動していて、こうして街が活きているのです。

そういうなかでも変わらずあり続ける物は確かにあります、そして新しい物をみて、ふっと思い返すこともあります。未来を見続けて歩き続けることはとても大切なのだろうけど、こうやって自分の根っ子の部分を見返すことも大切なのでしょうね。この街は私が生まれ育った街で、私の故郷なんです。アイディンティティが少しぐらつきかけているなって思うときには、時々こうやって歩いています、この場所をね。あの当時考えたことをふっと思い出す時間があの頃思ったことがよみがえるんです。それらを、今の自分と見つめ合わして、新しい道筋を選び取っていきます。あの頃がよかったって考えではなくて、今の方がいいのでもなくて、これから先に自信をもって選択することが出来る自分であるために、今を含めた今までを心に抱き続けるのです。

久々に平和記念資料館を観に行きました。市内に生まれ育った人ならだれしもがいくつかの思い出を持っているであろう場所です。小学校にあがる前の幼稚園の前のその頃の私の写真が、この資料館がある平和記念公園で撮った物が残っています。学校に上がってからも、様々なタイミングで行っていた公園です。資料館の中に入ったことは片手で余るくらいしかないのだけど、こうして時々思いだしたようにやってくる場所なんです。様々な資料と体験談、文字の持つ力映像の持つ力、物に込められた思いがここにはあります。私にとっては想像だけの世界をこうやって情報に触れられる資料館にくることで、現実に近づけ想像力に厚みが生まれるのです。体験が心の中で活きています。今日は盆と言うこともあってなのでしょうが、多くの観光客がいました。こういう人たちの心から平和への想いがはじまるのでしょうね。

来年の春には居を帰る予定です。その場所は今よりもずっと故郷に遠くなります。そこで私は何を思うんでしょう、心の置き場所はどこになるのでしょう。

私の中を受け継がれ流れ続ける歴史があります。親がいて祖父母がいて曾祖父母がいて、さらにどんどんと広がっていきます。その一人一人にはきちんと歴史があって、世間の歴史と共に歩んでいました。その歴史の連なりがメチャメチャになったのが、その時の戦争という選択なんだと思います。これから先のこの国がこういう選択をする事が無いように、主権者の一人として、私は命を大切に生きていきます。