過去に犯した事をどんどんと挙げていき、その人を責めたてていく。言われる方もたまったものではない、今を言われるのならまだしも、過ぎた事に対して糾弾されるのだから。影口が聞こえて来るのと同じくらいの嫌らしさ。それが許せるものどおしが集まって、酒の席で語り合う。こうなると、この話は糾弾じゃなくて、戦友や悪友と言える話。別に酒の席じゃなくてもよいのだろうけど。この辺りは犯した罪を今がどうとらえているのか、どうとらえようとしてきたのか、それまでにどういう事を行なったのか、そして今がどういう状態なのか、そんな所で決っていく。いつまでも許されない罪ってのもあるのだろう。誰にも絶対的な権力で許すなんて言うことは出来ない。ただ、その人に対して己がどうありたいか、その事を己がどう思っているかで許す事は出来る。人だから出来る事って案外と多い。限界を知る時もあるけど、限界をみてしまってあきらめるよりも、その限界を更に広げるように動く方がずっとカッコ良い。法的な罪ってものもある。犯した罪は消える事はないのだけど、判決と言うものを下され、その罪に応じたそれ相応の罰を与えられる事で、罪を償っていく。これを被害者の立場に立って考えてみたらどうなるだろうか? 自分の被害が法律で測られ裁かれていく、金額を測るお金と言う価値をもった単位はあるけど、心を測る事は出来ない、定量化出来ないものを測ろうと言うのだから。でも、いつまでもとらわれ続けていてもその場で淀むだけなので、司法権から与えられる判決によって一応の決着をつける。私刑や仇討ちの禁止は一体いつ頃から法令化されたのだろうか? 慈悲にすがって生きる美しさも、現代社会の中を立ち行かなくする可能性がある。考えてみれば恐ろしい事。人が罪を償おうとする事を阻害する事は許されない。一度罪を犯した人はまた繰り返すとか考える人もいるけど。一度も犯した事ない人なんているのか? 同義的に許されない事だし、忘れては行けない事、過去にこういう事件があったって事を忘れてしまったら、そこまで。でも、それに好奇心や興味本位で近付く事にもまた危険性は付きまとう。マスメディアが助長する、他にも伝えなければ行けない出来事は多くあるのだろうけど、視聴者が関心あるニュースを面白く伝える事が一つの使命。結局の所エンターテインメントなんだから、それで良い。踊っていた方が楽しい時もある、それで大切な何かを無くしてしまう人も居る。記憶は思い出となり深くなる、忘れられない事は増える。まだ起きていない未来を心配する。その基本が過去なんだから。でも、自分のフィルタを通さなければ見る事は出来ない。立場によって意見が違うのは当り前。狭量な意見だなと思っても否定する事は出来ない、自分の権利を害されない限りは。その人が意見する権利を踏みにじる事が民主主義に最も反する事。ひずみがどこかから生まれる。単に戦線から遠いだけの場所。それが大きい。