再開

ウェブサーフィンを再開する。約5ヵ月間、知っているページすら殆ど行かない日々が続いていたから。大好きだったページを再び覗くと、くすぐったい様な懐かしさが、こみ上げて来る。毎日の様にページを覗き、書き込みをして、返事を楽しみに読んでいた。あれだけ離れられないと思っていた、ウェブサーフィンだけど、ちょっとした気持ちで何事も無かったように離れる事が出来るし、ふとした切っ掛けで帰って来る事も出来る。本当に物事を楽しもうと思ったら、ある程度の余裕が心にはいる。楽しんでいるうちに、生まれて来るものもある。暫くは時間を上手に作りつつ覗いてアクティヴに楽しんで行ければ良いな。絶ちもの祈願って、上手く行く事もあるけど、いかない事も同じくらいある。俺はどっちかと言うと、絶ちもの祈願をしてしまう方。自分がやっている事に自信が持ててない証拠なのかな、こういうのって。これだけ我慢したのだから、これだけやったのだから、形を与えて安心してしまっている、つもりになっている。でも、この両者の間にも何の相関も無いんだよ。好きな事を止めたからと行って、その為に当てていた時間が別の事に回せるようになるけど、その時間が生きた時間になるか、死んだ時間になるかは、無関係。生きた時間を過ごした方が、自らが得られる安心感は大きい。では、絶ちもの祈願は意味が無いのか? これも一概には言えない話。全く関係無い事が昇華の役に立つ事もある。やってもやらなくても、結果から観て行く事だろうから、進行形では判らない。自らに与えられるものって言うのは、少ない。自分自身でアンテナを貼りめぐらし情報を収集して、世界を切り開いて行く、迷宮の開拓者。誰かが作ってくれた道を上手に歩く事は、最初に進み方を覚えるまで。遠回りをするかもしれないし、無駄で、無価値な事に情熱を費してしまうかもしれない。この迷宮に出口があるのかどうかは、誰にも判らないし、例えあったとしても、そこにたどりつけるかどうか。その為の武器を必死で研ぐ。時に力と言う形、時に知恵と言う形。あらゆる事は繰り返す、全てがあるのは、何もないのと、殆ど同じ、繰り返されるから感じとれること。望んでも何にでもなれるとは限らない、だけれども、望まなければ何者にもなれない。