赤江瀑『海贄考』

海贄考(うみにえこう) (徳間文庫)

海贄考(うみにえこう) (徳間文庫)

「悪い鏡」

一人の死が告げられる。およそ一年の間、バーの二階で寝起きを友にした男の死が、冒頭警察の口から告げられる。床以外のすべての面が鏡で覆われた部屋での自殺。どんな部屋なんだろう。どの方向を向いても自分の姿を見せつけられる部屋というのは。江戸川乱歩の短編にも似たような鏡に覆われた舞台があった。言葉の描き出す妖しさがどこか見つめられるような、首の後ろ辺りを差すような感覚。私の部屋にも2枚鏡はある。一枚は部屋にある全身を写すための鏡、もう一枚は洗面台にある、顔を写すための鏡。これくらいの枚数の鏡は想像できるが、それが全面にあるとなると。幼い頃に合わせ鏡で遊んだことがあるけど、それを更に多くの世界を取り込むようにしたのがこの世界。数旬は面白いけど、長く見つめ続けると確かにある世界なのに、どこか違う感覚に恐ろしくなった。それを部屋にいる間中意識すると考えたら……。意志とは別の角度からする己の客観視。自分の境界線が曖昧になりそうな瞬間。

「浮寝の骨」

人が人を欲しいと思う。人が人に会いたいと思う。この感情にいったい何て名前を付けるべきなのだろうか。頭ではない、もっともっと心の奥の方から沸いてくる本能みたいなもの? 忘れていたつもりになっても、心に生きている人は永久に失われる事も死ぬ事もない。何かが引き金となって起きあがってくる、だがその途中では起きあがっているものに気が付かない。自分が何を欲しているのかも解らない時がある。だが、それに気が付いたとき。一生をかけて、それを求め続けるのかもしれない。その一瞬で終わっても良いと思うくらいの。永遠を感じる時はあるはず。

「硝子のライオン」

ミステリィを読み終えた時のあの頭の天辺から足の爪先までを貫くような震え。その感覚を捕まえたく想い、私は言葉で書き留める。何のために生きているのだろうか?  生きている理由が見いだせなくなり死すべき理由もないのだけど、その死を見つめてただ今在る。心の底から信じていた物の別な姿に恐怖を覚えると、このように他の物も含めた全部が絶望と不信で覆われてしまうのだろうか?  望みが全く逆の形で叶ってしまったから望む事すら失ってしまうのだろうか。探す事も、求める事も止めた人間の背中を硝子の粉が流れて妖しく光っている。輝きの奥に昔に彼果てた涙をみる。

「幻鯨」

短編が好きだ。読み込むほどに惹きつけられていくような長編もとても面白いけど。文字数ではない、文章の技でこれだけの背筋が寒くなるような、世界で魅せてくれる。そんな、短編が好きだ。1つの事に懸け、その1つの事だけを目的として生きている。起きてから眠るまでの間中ずっと、そして眠ってからは夢まで1つの事が己を占めている。そんな生き方。獲物がいるから成立する漁師という職業。そのなかでも鯨だけを狙う男達。自らの命と誇りをかけて、獲物の命を奪っていく。勝つか負けるか、生きるための戦い。生きることが鯨を捕ることになった、とってない時間は生きていると思えない。そんな時間が長く長く続く。迫り来る極限状態。一瞬の幻、いや幻ではなかったのかもしれない……。そんな疑問を残し突き落とされる恐怖。

「月下殺生」

月の光に照らされる道。日の光の下では見えなかった者を月の光は映し出す。闇の内に秘めていた者を表すには、日の光よりも月の光の方が向いているのかもしれない。とても優しい光で命の内側に潜む死を見せてくれる。情の世界。

「外道狩り」

心の中に隠れ住む闇。普段は自分さえも気付かずにそこにある。不意にもたげてくる不安。その闇と相対しなければいけない時がある。必ずあるのだろう。その人それぞれの儀式めいた方法で自らの闇を誰もが飼い慣らしているのかもしれない。生きるために、より素的に生きるために。

「火藪記」

古の祭事を背景にして物語は進んでいく。最後の場面で最初に示された祭事が意味を深めて、また迫ってくるような感覚。自分が行った事の意味をすぐに悟る事はとても難しい。ただ、その時にやりたい事やるべき事を自分が命ずるままに行うだけ。その結果に気が付く瞬間の恐怖にも似た感動。「たら・れば」を考えるのではなく、今この瞬間に殉じる人でありたい。