怒られ方

全人格否定されるような怒られ方をするとやっぱりめちゃくちゃ凹む。そのもののを怒られるのではなくて、そこから派生してそんな面がここにも出ているあそこにも出ているって怒られる、理不尽さ。怒られても当然だと思う面もあり、こんな面で怒られることがどうしようもないくらい理不尽に思えることもある。人を上手に怒れる人になりたいなって思うのがこういう身近に反面教師を感じるとき。実力と能力があるだけでそれが無い人を怒ることは出来ない。その人を諭すように導くようにそしてその人の落ち度に気が付かせるように。まぁ同じ事で何度も何度も怒られていたら、そんなのを望むことが間違っているのかもしれない。人に力を借りないと自分の居場所が把握できない、この分野においては。普段の俺は自分の場所が解っているのだけど、この分野がその面にまで影響を及ぼし不安定にさせられる。居場所が分からなければ何を考えて良いのかが解らないし、テクニカルタームだって同様。最初は目で見るのだけど、そこで止まっていてはただ読むだけ、読んでそこから何が書いてあるのかを考えて自分の中にそれを構築していかないといけないのだ。まぁそうやって言葉にすることは簡単、これが簡単と思うくらいな組み方しかしてない、全ての物事を言葉で考えてしまう、言葉でとらえてしまう。似非理系。まだ文系的思考をしてしまう機会が多い。論理とか関係なく、書いてあることはこうなんだってね。何度も何度も同じ事を言われる。ここまで年を経てしまうとなかなか代われない。年齢のせいにして逃げている、考えることを放棄している。これがいけない。何故かわれないのかを考えなければ。最初に考えなくてはいけないこととは違うので、後回しにするか、別なことをしながらの時とか、こうしてキィを叩いているときとか。出動して机に座ってノート広げたらその世界へ。解らないが通じる世界と通じない世界。普段の講義も解っている方が少ない。数学的抽象的思考の難しさよ。高等数学がいかに難しいか。目に見える世界には全くないものなのだから、これが解れば目に見える具体的な世界にフィードバックできるのかもしれないけど。解らないんだからね。まぁこれは解らなくても困るのは半年も無いのだけど。本分の本分の方はね、これから一年以上戦っていくためにも身につけていかなければ。人生最大の敵に早いうちに出会えたことは幸せだと思わなければやってられないかなぁ。恨みと話の種には事欠かないから。