年賀状

年賀状を何とか投函する事が出来た。今年は20日までに投函すると記念のスタンプが押されるらしいので、今までの年ならば後5日以上余裕があるこれを、週末使って残り全部を書き上げた。小学校中学校の頃は年が明けてから年賀状を書いていたけど、高校に入った年から元旦に着くように年内に準備するようになった。なるべくこの習慣は続けて行きたい。たった年に一回の交流になってしまった友人だっている、10年以上送り続けている友人もいる。そいつらを思い出す事にだけ専念する宛名と文面を書いている時間。俺の年賀は手書き。一度宛名をワープロに任せてみた事があるけど、その時の文面は手書き。今年は表すら手書き。11月に入ったあたりからパソコンショップの葉書を書くためのアプリケーションが並ぶ辺りは一新される。書店にもその手のCD-ROMを扱うコーナが時を経るにつれて大きくなってくる。俺も一度そういうものを買った事がある。でも、これって個人で使うのにどれだけ価値があるのだろうか? 企業ユーズで手では書き着れない程の枚数を送る所何かはこういうものがあった方が便利なのかもしれない。でも、これだって手でやろうと思えば出来る事なんだよね。実際今でも手書きが方針だと言うことで宛名を総出で書いている所もあると聞いた事がある。俺は手書きの方が味があるとか、コンピュータを使う方が綺麗で速いだとか言う気は全く無い。こんなのは好き好きの世界だし、道具を何使うかの選択にしか過ぎないのだから。ただ、年賀状が書きたいからコンピュータやワープロを買うって選択がある事が不思議でならない。書ける、年賀状にはじまる各種郵便物だって、家計簿だって、ほとんどのものを作る事ができるのだろうけど。よくよく考えると、手間の方が増える事だってある。何にせよ、どんな道具を使って書くかよりも、その相手に対して何を伝えたいか、何を書くかの方が何倍も大切だと思う。持っている力が強大な分、自らのスキルが無ければ使いこなす事が難しい道具。見ためはどんどん簡単になって、使う事は出来るけど、それらを本当に使いこなせているのかと問われたら俺も自信が無い。持っているものを最大限発揮させてやる事が出来ていないかもしれない。こうしてページを作っている事だって近いものがある。その日に考えたことを記す事だって、読んだ本からインスピレーションを受けた事を綴る事だって、その時に思い付いた作品を書き付ける事だって、別にノートでも出来る。似たようなページはサーチエンジンに書ければ数えきれないくらいの確立でヒットする。自分から情報を発信できる価値は測り知れないものがあるけど、どんどんと薄くなる。どんどんと私的に私的に。世間に名の知れていない一個人の考え方なんてどれだけの人が楽しめると言うのだろうか? それでも、俺は続けている。俺自身の為に。一度記憶喪失になって自分の書いた文章を全て読んでみたい。